ジャコ・パストリアスによろしく【再】

双極性障害と社交不安障害とグレーゾーンのアスペルガー傾向を抱える野良サウンドマンの徒然であります。

"Mind your own business"とアドラーにおける「課題の分離」について。

こんにちは。

なんだかもう梅雨をすっ飛ばして、夏ですな。

 

さて表題。

 

数日前のポストでやんわり書いてますが、実は姪についての心配事が高じて義妹を介した三角蹴り状態で母と揉めまして、近年稀に見る感情的な衝突がありました。

さすがの私も、というより、そもそも気分障害のある私は過剰反応を余儀なくされた事態でした。

 

で、そこそこの冷却期間が必要であろうとは考えておったのですけれども、そんな折、アドラー心理学について振り返る機会がありました。

ベストセラーになった「嫌われる勇気」で耳にしたことがある方もいると思います。

 

簡単にご紹介しておきますと、アルフレッド・アドラーユングフロイトと同時代を生きた現代心理学の大家でありながら日本ではあまり馴染みのある存在ではありませんでした。

後者二人との大きな違いは、二者が現代心理学の主流であるところの「分析心理学」に基づくのと対照的にアドラーの志向したのは「個人心理学」と呼ばれる立場で、分析より問題解決を目指す傾向が強いところでしょう。

 

そこでひとつの軸になる考え方に「課題の分離」という発想があります。

以下マンガでどうぞ。

yuk2.net

物凄く簡単に言いますと、

「ソレはソレ。コレはコレ。」

「人の人生に踏み込みすぎない。」

これに尽きる訳で、ここさえ押さえておけば人のことについて感情的になることも抑えられることを改めて心得ました。

 

また、表題に挙げた"Mind your own business"と言う言葉ですが、日本語訳的には

「余計なお世話だ」

という訳になります。

だけど、英語表現で時としてある反語表現になっていて、直訳をすれば

「自分自身の仕事に気を払えよ」

となる訳です。

 

あー、なるほどね、と。

感情的になる時って、大体問題をごっちゃにしがちですわね。

 

アドラーの主張は表面だけ見るとちょっと突き放した感があるので、人によっては違和感があるかも知れませんけど、「人は人、自分は自分」という真理をついています。

その上で共同体感覚を大切にすれば、みんな幸せになれるじゃん、と。

 

今私は一人暮らしに戻って、結果物凄く楽だったり、原初的な考え方に帰るのに早かったりするんですね。これは個人に戻りやすい環境なのだなとも感じます。

 

人間は感情の動物なので時々面倒くさいこともあります。

だけど理知的な立場に立てるのも人間の特権です。

 

アドラーによると、人間の問題のほぼほぼすべては「人間関係に起因するもの」だと喝破します。

これも「個人がどう扱うか」にという寄る辺のことでしょう。

 

クールに生きたいものです。

 

チャオ。

 

 

 

 

 

 

 

某グループTのY氏にみる「ストレス・飲酒・問題行動」についての一考察。

こんにちは。

今日は関東地方、湿度も低くて爽やかな初夏でした。

みなさん、ご機嫌いかがでしょうか。

 

さて。

まず表題について断っておきます。

イニシャルなのは不当にアクセス数を稼ぐようなちょうちんにしないため。

また括弧内の内容に興味いただける方が読んでいただけることの方に意味があります。

ここで扱うのは今回起こった婦女暴行事件そのものではなく、飲酒においての問題行動全般を視野に入れた話と考えて読んでいただければ幸いです。 

 

また更に重要な点は申し述べておきます。

決してY氏の一連の行動を正当化する趣旨は一切ないこと。ここ大事です。

本題に入っていきましょう。出来る限り丁寧に。

 

まずは要素を箇条書きに。

①グループTという存在におけるその負荷、ストレスというものについて。

②Y氏が40代にして入院に至るまでの程度の飲酒習慣だったことについて。

③飲酒と社会の関係。そして問題行動とその先に想像されることについて。

順序が適切かは自信がありませんが、なんとか繋げたいです。

 

まず①について。

皆さんもご承知の通り、グループTは彼らが少年と言っていい世代から人気者であり、かつただそこに胡坐をかいたり慢心することなく努力を重ねてきた人たちであります。

常に人目にさらされ、時には心無い評価も受ける立場、でも彼らのメンバー誰一人として1週間の間に目にしないことはない存在ですよね。

簡単に言えば市井の人とはちょっと違う形の「激務」を少なくとも30年は続けてきたグループです。

ただ、ここでもひとつ釘をさしておかなければならないのは「5人ともそうだ」ということです。何もY氏に限ったことではありません。

 

ストレスと飲酒の関係についてここでひとつ申し上げます。

実際私も飲酒習慣があります。そしてそれを問題視されたことがあることも告白しておきます。

後に重複するかも知れませんが飲酒や喫煙について、昔だったらアルコール中毒とかニコチン中毒とかいう用語でしたが、現在では医療的立場の方は「依存症」という観点でみます。要するに始終飲んで無くても「回避行動」すなわちストレスから逃げる手段として「依存」している傾向を意味します。

とりあえず①について。

 

次に②について。

これについても私自身も偉そうなことは言えません。

告白しますが自分では気がつかないうちにγGTP600という、放っておけば急性肝炎やひいては肝硬変になって死ぬかもというレベルに至ったこともあることがありました。

その時ですら私自身は身体的変化に気がつかなかったことを考えると、Y氏が40代半ばにして入院に至った大事を実感できます。

つまり「相当やばいくらい飲んできた」というのが、実感として判ります。

 

で、ここからが③につながることになるとも思いますけど、体力的にお酒が身体に入っていっちゃう人はかなりの確率で「自覚に乏しい」ことかと思います。

自分の失敗を忸怩として申し上げます。

平たく言うと酔ったら眠くなる、くらいが健全ということです。

また、現時点得ている情報として「40代男性(しかも飲酒が原因で入退院直後)が焼酎を1升飲めて、しかも潰れるでもなく酩酊」。

俗に言う「酒に強い」という感覚とは乖離しています。

 

そして③について。

ここから飲酒に起因した問題行動と社会生活との関係についてです。

改めて申し上げておきますが、Y氏の問題は被害者が被害届を提出し事件化していますので、如何に原因が「飲みすぎだった」とは言えそれに関する釈明にはならないのは自明です。事件ですから。

で、取り下げられたと言っても彼の職業は特に社会性の高いものになります。

そう言えば、数ヶ月?もちょっと前か。某有名女優Tさんの息子さんも飲酒がらみで暴行で…というのがありましたけど、それも事件化したこと、立場は同質です。Y氏の方がキャリアがあるだけ意味が違うとも言えますが。

 

以下、先に私の失敗を申し上げておきます。

デイケアに通所しているころ、私は就職準備の問題や家庭内離婚の問題ですでにその頃破綻気味だったと思います。

個人的には無理やり頑張っていたつもりでしたが、施設担当者他から

「呼気がお酒臭い」あるいはもっと言えば「ふんわり周りがお酒臭い」

という角で問題視されたことがあります。

で、ここで問題なのは「本人にコントロールが効いてないこと」でした。

 

今から振り返って思うに、当時食事も摂ることもままならない癖にストロングチューハイ数本で晩酌をするという行為が常態化していました。

今にして冷静に考えれば、ですがそれがコントロールできない状態が問題視される訳でした。医療関係者はそういうのを「回避行動」とか「依存症」と呼ぶことも改めて知りました。

 

最近は「臭い」に敏感な社会になりつつあります。体臭、口臭ですらそうです。

そこへきて「お酒臭い」とか「タバコ臭い」とか、社会的にはもう問題外の領域なんです。

 

昭和に生まれ、ギリギリ昭和の残り香漂う職場で育った私はそういうことに無頓着なところがあったのは反省しきりになりました。

簡単に言うと酒やタバコに甘い日本社会というのがあって、そこに甘えが残っていたオジサンになっただけじゃん、と。

 

タバコは本題でないのでおいておきますが、ことお酒について。

(タバコもデスクで吸えた時代があるんですよ?信じられない世代もいると思いますが)

 

私が長く働いた業界もどっちかというと「荒い」気風が残っていた世界だったようで、私らより上の世代は「出張中だと勤務中でも昼ビール」とか「待ち時間に詰め所にビールサーバがあった」などの伝説があったし、上司から聞いた話でおまわりさんが

「あー、ね。年末年始となると●●業界や△△業界や□□業界の人たちの面倒見が大変で」

と、俗に言う「トラ箱(酔っ払いを一時的に保護する牢屋)」から部下を引き取りに行く度言われたそうです。

まあ、そのそれぞれの業界は今でもかなりストレスフルな職業であることは、ここでは詳しくは言えません。

 

以上は昔の「犯罪に至らない問題行動」くらいの対応についてになるかと思いますが、それほど社会と立場と責任のことにもなるということでしょう。

 

これは想像に過ぎませんが、入院するまでの飲酒習慣のあったY氏はきっと職場で

「わ!Yさん、お酒臭い…」

と思われていたかも知れません。

だけど、立場ゆえ誰も指摘しなかったのでしょう。

 

指摘されて改善できた私は、そういった問題点を突きつけられて改善できたのは幸いの限りです。

 

そうはいっても。

私も20代にも夜の仕事をしたり、荒い業界にいたり、飲酒によるギリギリアウトなのかセーフなのか問題があったのは事実です。ただ訴えられたり、死んだりしなかっただけです。

 

自分で今課していることは、人と容易に会わないとか連絡を取らないとかなので、アルコールを伴った会食をする機会もないです。

失敗を踏まえた自戒をこめてのルールです。

 

Y氏の行動が結果事件化してしまったことは誠に残念で、被害者の方がいらっしゃってそれは許しうる行動ではないことは、重ねて申し上げておきます。

同じような負荷やストレスにさらされていた、他の4人のメンバーにはそれは起こらなかった訳だし。

 

だからこそ、というか彼の道程に何があったかについて、想像を禁じえない気分になるのです。

 

※彼のことを是も非もなく「悪だ!」と言う方がいらっしゃったら、気分を害する内容が幾らか含まれているかも知れないので、先にお詫び申し上げておきます。ごめん。

 

 ※追記

 今回この件について書いていて気がついたのですが、昨今あらためて盛んに浮上しているセクハラ問題も、無関係とは言えないような思いがよぎりました。

 また、本記事で被害者様方の権利や立場やお気持ちについて触れなかったのは、そういうことに生半可な良識で触れられる見識にない立場とわきまえていることもあります。

 もしその辺に気になる方がいらっしゃいましたら、その辺をご理解いただければ幸いに存じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

男と女と、ファミリーアフェアー。

こんばんは。

久しぶりの更新になります。

個人的には気圧だ湿度だで体温調節に自律神経がやられっぱなしな日々です。

 

最近更新がなかったのは、ルーティンとしての勉強を始めたこともあって、瑣末なところをほじくるような言語化を控えていたせいもあってですね。

でも、どうもそれが裏目に出る事態が起きまして。

 

実は先日、私の再スタート?リセットか、にあたって全幅の協力をしてくれた母と大喧嘩に至ったことです。

この先は他の親族にも関わることなので詳しくは言えません。

ただ、判ったのは私の両親は私の現況を受け入れざる得なくして受け入れようとしていても、一般論的には理解に至らなかったことが露呈してしまったことでした。

無理も無いと言えばそうとも言えます。

でも不用意にいわゆる「意識高いモード」に入っていたらしい私は、余計なことをしたようでもあり、それはそれで即座に理解はしたのですけどね。

 

今日、帰りしなに商店街でさるおばさまとおじいさまが

「…(あの子)知恵遅れで。いわゆる発達障害…」

「(私、心の中で)それ、別物だから!」

という会話を耳に引っ掛けまして、「ああ、あれも基本そういうことかなあ」と感じ入った次第で。

でも、悔しい訳ですよ。何らかの公的サポートなり受けてきた、あるいは同等の受けてきている人を見てきた存在としては。

 

そりゃ誰も自分の家族からいわゆる「障がい者」と呼ばれる存在に納得は出来ないでしょう。それはどんな障害にしたってそうだとは思います。特に高齢の世代は。

 

でもね。一方で、こんな話も思い出しました。

matome.naver.jp

 

かいつまんで言うとここでは女性は「車が動かないこと」そのものにまつわる困ったことを単に「懐述」しており、男性の方と言えば「車が動かないこと」の原因を探ろうとしてバッテリーの話に終始しています。

 

でも、女性の論旨は「車が動かなくて困った」だから、まずはそこに同意して欲しいし、バッテリーじゃない解決方法を遠まわしに求めていたようにも読めますよね。

 

心理カウンセリングの勉強でも引用される有名なスクリプトですが「コピペ」とされています。原典が判りませんけども男性と女性の会話の特性を的確に集約しています。

俗にコミュニケーションにおいては女性にとって「感情や共感」が重視され男性にとっては「承認や解決」が重視されると聞いたような気がします。

 

さするに「あー。かーちゃんも女っちゃあ女だったわー」と後に思い至る愚鈍な息子の私でもある訳です。

そんな超身近な存在ですらそうであることをこの歳にして体験し、そこから家庭環境で悩んでいる方も多いことを翻って想像する機会にもなったかと感じました。そんな生易しいものではないのでしょうけど。

 

両親にとって子は子だけど、子に妻が出来て孫が出来たら、それは新しい家族単位でもあり、男児の母親としてはその妻は複雑な関係であるようです。

私がギリギリ言えるのはここまで。

 

家族。血は水よりも濃いってけど、感情もそれほどのことと改めて感じたことでした。

www.youtube.com

 

珍しく和訳を乗っけます。

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それは家族の問題さ、それは家族の問題さ
それは家族の問題さ、それは家族の問題さ

ある子は成長していく
学びたいから学ぶというような子に
一方別の子は、成長するとしても
君が燃やしてしまいたくなるようなタイプになる

母さんはどちらも愛してる
そりゃ自分の血を分けた子ども達だから
あの子達も母さんが大好きさ
「血は泥よりも濃し」って言うだろ

それは家族の問題さ、それは家族の問題さ

新婚だったのはほんの一年前のこと
でも君たちはまだお互いのあら探しをしてる
そりゃどっちも相手を責めたくはないし、
どっちも無視されたくはない

まだ出て行けないよな、嫌いになった訳じゃないんだから
でも一緒にはいられない、もともと他人だったのだから!
泣くことも出来ない、打ちのめされたように見られちまうから
まあ結局は泣くはめになる、だって、二人とも限界だろ!

それは家族の問題さ
それは家族の問題さ

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とりあえず今日は以上です。

ちゃお。

 

 

決意表明。ピアスタッフを目指します。

こんにちは。久々の更新になります。

 

なんだか桜もまだ残っている中、暑いは暑いは。ねえ。

 

この一月あまりいろいろなことがありましたが、なかなか言語化できませんでした。

あまり詳しいことは言いたくありませんが、本格的に準備事業所に通ってる訳です。

 

自分のなかなかややこしい不具合に各分野の専門家の方々の力を得て思うことがいろいろありました。

去年などはなかなかに乱調をきたした挙句、決定的な事態に至り、むしろそれが私の根源的な部分を問い直す結果となりました。

 

で、表題です。

今日支援計画の再策定を行ったのですが、初めて明言しました。

今までは去年の由々しき状況もあり、表現をぼかしてきました。

某当事者の集まりみたいのでも何となくしか言いませんでした。

否定されるのではないか、という不安と自信の無さがあったためです。

 

でも、もうハッキリ言いました。自分の希望、意思です。

自分の価値観を大事にすることから始めないと、何にも始まらないから。

そうでなくちゃ、何で青年時代にロックに惹かれて冒険してきた意味がないじゃないか。

自分の人生は自分のもの。ケセラセラでもセラヴィでもよし。ともかく正直に。

 

また一歩、始まります。

 

ふと思い出した曲はライムスターの「Once again」の方ではなく、この曲でした。

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復活ではなくリバースなんです。明日もブランニュー・デイ。

 

では良い一日を。

何回か目の思春期、何度目かの卒業。

こんばんは。

 

3月になりました。春めきますね。花粉の方、お大事に。

 

このブログを再開するにあたって、やはり「あまり詳しい情報を載せてはいけないな」という思いもありぼかさざる得ないのですけれども、先の2月いっぱいを以てさるリハビリ施設を退所しました。

 

年限が達したので対処せざる得ない状況だったということですけども、その先の道筋も付けるにあたりました。

ただ、この一年余りを通して思うことは本当に何一つ自分の見積もり通りに行かなかったという事実です。

 

そこで色々な思いと色々な体験がありました。

言ってしまえばアレですけど、一種開き直りにも近い感覚も生まれました。ただそれで楽になれたこと、道行きを考えるヒントが生まれたことも事実です。それは失敗体験も踏まえてのことです。

 

表題にもありますけれども、本当に「二回目の思春期」が来た思いでもあります。

よくサラリーマンの退職年齢を目途に「第二の人生」なんて言い方をしますけど私に於いてはその第二の人生を考えることが他より若干早いのかな、ということと、もう一回学生時代みたいに考え直す機会が与えられたのだろうと感じること、だからこそ悩みに悩むこと、また気楽になれること、それを以てして「思春期」と言っても良いのかなと思うのです。

 

「会うは別れの始めなり」

 

人が死するまでの道行がどうなるのかは誰にも判りません。

ただ一期一会とも言いますけどただ漫然と暮らすのか意識高い系で暮らすのか個人的にはどっちも大した変りはないとおもうのですが、人は一人でいられる大きな気持ちがあってこそなのか知らんと漠然と感じている段階であります。

 

アドラー心理学ブームを巻き起こした「嫌われる勇気」という本があります。

ここで言われてることは何もあえて「イケず」をして嫌われようということではなくて、自分が自分を選び取ることを誰も責めてないからそういうことに気づけよ、ってことだ今はなんとなく解釈してます。

まだまだ読み進めたい。読み返したい。

 

この書籍において言われるのが「全ての悩みは人間関係に於けるものである」と喝破しています。

その通りで価値という概念は比較することから生まれます。

ここで言われてる例えも「宇宙に一人きりなら何も悩みはないはず」

その通りですね。

 

うーん。

哲学、心理学、精神医学。

それぞれ切り分けが難しい領域ですねえ。

でも少しづつ素人ながらも当事者として学んでいきたいと思います。

 

あ、そうそう。大事なことをひとつ。

皆さん、福祉とかなんとか「綺麗ごと」って感じ、ちょっとしませんか?

ウソつかなくていいですよ。だって大変なことだから。

でも大事なことだとはみんな思ってる。

だからきれいごとじゃなくてかっこわるい形とかも、ちょっと模索してみたいなあ、なんて。

難しいことですけれども。

 

混乱してきたので、今日はこの辺りで。

 私の何度目かの卒業祝いに一人勝手にこの曲でも。。

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チャオ。

 

 

「失敗」という一番の自分を救う薬を受け止めること。

こんばんは。

 

もー寒いんだか暖かいんだかハッキリしないので大変。

 

では。本日。

表題どうしようかと考えた挙句、こういうことにしてみました。

最初に想起したのは「一見普通に見えること」と「自分の判断は間違わない」という思い込みから来る問題を考えてみました。

実はこれ、前後が繋がっていません。

ただ確実なのはこれらを元に生まれるのが誤解や失敗や挫折だったりすることです。

かつ、後者なんかは別に精神疾患に限ったことではないとも言えます。

 

最近感じるのは失敗というのが一番の学びの機会だなー、ということです。

スチャダラ兄のライムにありましたが

「間違ってるけど間違いないのか 正しいけどちがーうのか」

という名フレーズが思い出されまして、「自分の判断は間違わない」という思い込みを誰かに否定されるというより「失敗」と受け止めるのは主観でもあったりして、結果論だからですかね。

 

で前後しますけど「一見普通に見えること」というのも後者の「自分大丈夫、やれる感」を錯覚させる一因でもある非常に厄介なものであることです。

精神疾患などでは寛解などという「わし、もうよくなったよーん」的な表現がありますけれど、何故「完治」という言葉を使わないのかを忘れてはならんのです。

要はコントロールをし続けることでなんとか保ってることなのだから。

 

その上で自覚と学び「続けること」が重要になるようです。

人から言われたってダメなんですよね。自分が腑に落ちない限り。

そこで一番効く薬が皮肉にも残酷にも「失敗」なのではないかと。

確かにその失敗が巻き起こした事態で回収不能なものもあるでしょう。だからこそ一番の薬になるのだと痛み入るのです。

 

原理原則としては、ここは病気だ障害だ健常だとか関係ない普遍的なことかと考えます。

 

大丈夫。命までは取られません。

だからもしですけれども希死念慮とか自殺願望とか自傷とか考えるような方がこれを読んでいるとしたら、どんなに自分がみじめで情けなくて不甲斐なくて価値がないと思っても、自分を責めすぎないテクを身に着けるトレーニングをしてください。

もちろん多少の反省は薬の効能です。

最近私が良く使うのは「反省はするけど後悔はしない」。

やっちまったもんは仕方ないし、それはそれとして。

例えば相手があることだったとしても、その相手を責めても無益なことです。

とは言え何も菩薩になろうって話じゃあありませんよ。

もちろん人間だから感情がある。

でもいいじゃないですか、それで。

 

合うも合わんも、沿うも沿わんも縁ですよ。

 

確かに致命的な失敗はある意味劇薬なので、解毒剤を用意しましょう。

 

改めて言います。命までは取られないから。

英語の諺に"Misfortunes never come singly."とありますが、日本語の諺を無理やりあてると「二度あることは三度ある」とか「泣きっ面に蜂」とかありますけど、ちょっとしっくり来なくて。

直訳すれば「不幸は単独では来ないよ(悪いことは立て続けに起こる)」なんでしょうけれど、だとすればその逆のシーケンスが容易に反証としてあるよね、って考えるからです。

連鎖反応っちゅうんでしょうか?

そういう意味ではスイッチの切り替えは価値観次第だとも言うことができますよね?

 

失敗に気づけるって、良くなくなくない?じゃないですか?

 

近場の失敗でも味噌にでも漬け込んでおけば、数年後はいい酒の肴になるかも知れんで。

 

チャオ。

 

 

「ジキルとハイド」と私。

こんばんは。

 

今日はちょっと暖かかったようです@関東地方。

もうすぐ春ですねえ♪

 

今日はぽピアサポートダイアローグ、というお題の元にさるメソッドによる対話を実践するシンポジウムというかワークというか、そういう場に足を運び色々発見がありました。詳しいことは今は言いません。ないしょ♪

※とは言え、いわゆるオープンダイアローグ、つまりはリフレクティングのワークショップみたいなものです。

 

さーて、表題の件ですが。

これぞ「部屋とワイシャツと私」くらい乖離した存在の並立であるのでは?

 

もう、ちょっと今日は簡単に行きたいと思いますよ。

これは古くは「二重人格」と言う言葉で表現されていましたけど、それはさすがに古いよね、ってんで「解離性同一性障害の代名詞として」あるとウィキペディアにもありました。すみませんね、いつも情報源が浅くて(笑)

(本買うってとこでもなくて。じゃあ図書館行こうか、って最近考えてる段階です)

 

これ、難しく言わなくても「双極性障害」だって大して変わらんなあ、と言うのが、自らを省みても他の人を見てみても甚く感じることであるわなあと思うのです。

 

冷静なときはいい。そして「明るく盛り上がってる」ときはハッピーピーポー。でも、攻撃的に「盛り上がってる」ときには何が起こるか?

そして、挙句は凹む訳。それは人から見たら都合のいい反応にも見えるかもしれないですよね?

そこが確かに「ジキルとハイド」との決定的な違いではありますね、と書いてて気が付いた。

ここには乖離はない。連続性があるから。

 

でも、経験的に双極性の他の人を見てても「我が身を翻っても」相当極端であることは否めません。

これは否定できません。

だから双極性を乗りこなし、ピアとして活動している方々に並々ならぬ尊敬を抱きます。

これって、想像以上に大変な技だと思えるからです。

 

だってですよ?

仮にもフロントに立つ人間が、時には感情的に煽られるような場面もあろうと思うのです。

だけど、そこで自分の感情(障害の場合は気分という持続的な範囲を言います)をコントロールするまでのリカバリーを自負しているのですから。

だからそこには普通の感性でもありがちな二面性ということと対峙する気概がないと成立しえないだろうと言うことです。本当の意味で「裏表」を捨て去る、あるいは受け入れる葛藤すら晒すという覚悟を引き受けることだと思います。

 

ところで。

件のダイアローグについての作法は、他からの参照情報を入れない、否定をしない、質問をしない、ということに基づいた全て「いまここ(あんまり好きな用語じゃありませんけど)」の「I(アイ)」メッセージである点です。

 

ここで起こることは何か。

対話の内容が「誰に引き継がれても分断しない」ことだと体感しました。

ここが面白い。

徹底的に対話に対峙するということです。

聞いている時には、よく「傾聴」なんて言葉がありますがそういうことより、より深く「自己内対話」が行われているとするところです。

これにより問題がDIGされていく感というのがあります。

 

なんだか、二つのテーマが走っていますが私の中ではあんまり矛盾してません。

何故なら「ジキルとハイド」が解離性同一性障害の象徴、いや、何なら二重人格でもいいけど、そう言われてるのはこの「自己内対話」が成立しないという状況を於いてこそをや、とも考えるからです。

だから「解離」と表現されるのではないか、と。

 

蒸し返すようで恐縮ですが、私自身は未だに良くも悪くも(良くも、ってなんだ?)「ジキルとハイド」だと感じています。言ってみれば「未分化」なのです。

リカバリー半ばなのです。

 

思うのですが、ピアの集まりなどに行くとそれだけで救われたり安心したりという効能があることは認められます。

ただ、私自身としては「その方法が如何にどのように実効的であるのか」は我が身を以て検証したい存在であるのです。

めんどうくさいヤツですね(笑)

 

だってさ、まだ未分化な自分のうちに「なんでこれが有効なのか」を体験できるこれとないチャンスだと思うからです。

別に疑ってかかってる訳ではありません。

ただ、まだ私の中の「ジキルとハイド」が未分化なだけです。

恐いでしょ?

 

チャオ。