ジャコ・パストリアスによろしく【再】

双極性障害と社交不安障害とグレーゾーンのアスペルガー傾向を抱える野良サウンドマンの徒然であります。

「ジキルとハイド」と私。

こんばんは。

 

今日はちょっと暖かかったようです@関東地方。

もうすぐ春ですねえ♪

 

今日はぽピアサポートダイアローグ、というお題の元にさるメソッドによる対話を実践するシンポジウムというかワークというか、そういう場に足を運び色々発見がありました。詳しいことは今は言いません。ないしょ♪

※とは言え、いわゆるオープンダイアローグ、つまりはリフレクティングのワークショップみたいなものです。

 

さーて、表題の件ですが。

これぞ「部屋とワイシャツと私」くらい乖離した存在の並立であるのでは?

 

もう、ちょっと今日は簡単に行きたいと思いますよ。

これは古くは「二重人格」と言う言葉で表現されていましたけど、それはさすがに古いよね、ってんで「解離性同一性障害の代名詞として」あるとウィキペディアにもありました。すみませんね、いつも情報源が浅くて(笑)

(本買うってとこでもなくて。じゃあ図書館行こうか、って最近考えてる段階です)

 

これ、難しく言わなくても「双極性障害」だって大して変わらんなあ、と言うのが、自らを省みても他の人を見てみても甚く感じることであるわなあと思うのです。

 

冷静なときはいい。そして「明るく盛り上がってる」ときはハッピーピーポー。でも、攻撃的に「盛り上がってる」ときには何が起こるか?

そして、挙句は凹む訳。それは人から見たら都合のいい反応にも見えるかもしれないですよね?

そこが確かに「ジキルとハイド」との決定的な違いではありますね、と書いてて気が付いた。

ここには乖離はない。連続性があるから。

 

でも、経験的に双極性の他の人を見てても「我が身を翻っても」相当極端であることは否めません。

これは否定できません。

だから双極性を乗りこなし、ピアとして活動している方々に並々ならぬ尊敬を抱きます。

これって、想像以上に大変な技だと思えるからです。

 

だってですよ?

仮にもフロントに立つ人間が、時には感情的に煽られるような場面もあろうと思うのです。

だけど、そこで自分の感情(障害の場合は気分という持続的な範囲を言います)をコントロールするまでのリカバリーを自負しているのですから。

だからそこには普通の感性でもありがちな二面性ということと対峙する気概がないと成立しえないだろうと言うことです。本当の意味で「裏表」を捨て去る、あるいは受け入れる葛藤すら晒すという覚悟を引き受けることだと思います。

 

ところで。

件のダイアローグについての作法は、他からの参照情報を入れない、否定をしない、質問をしない、ということに基づいた全て「いまここ(あんまり好きな用語じゃありませんけど)」の「I(アイ)」メッセージである点です。

 

ここで起こることは何か。

対話の内容が「誰に引き継がれても分断しない」ことだと体感しました。

ここが面白い。

徹底的に対話に対峙するということです。

聞いている時には、よく「傾聴」なんて言葉がありますがそういうことより、より深く「自己内対話」が行われているとするところです。

これにより問題がDIGされていく感というのがあります。

 

なんだか、二つのテーマが走っていますが私の中ではあんまり矛盾してません。

何故なら「ジキルとハイド」が解離性同一性障害の象徴、いや、何なら二重人格でもいいけど、そう言われてるのはこの「自己内対話」が成立しないという状況を於いてこそをや、とも考えるからです。

だから「解離」と表現されるのではないか、と。

 

蒸し返すようで恐縮ですが、私自身は未だに良くも悪くも(良くも、ってなんだ?)「ジキルとハイド」だと感じています。言ってみれば「未分化」なのです。

リカバリー半ばなのです。

 

思うのですが、ピアの集まりなどに行くとそれだけで救われたり安心したりという効能があることは認められます。

ただ、私自身としては「その方法が如何にどのように実効的であるのか」は我が身を以て検証したい存在であるのです。

めんどうくさいヤツですね(笑)

 

だってさ、まだ未分化な自分のうちに「なんでこれが有効なのか」を体験できるこれとないチャンスだと思うからです。

別に疑ってかかってる訳ではありません。

ただ、まだ私の中の「ジキルとハイド」が未分化なだけです。

恐いでしょ?

 

チャオ。